生き方と働き方学校について      井上弘寿 巽信夫 久間久恵 川野泰周 塩澤みどり

生き方と働き方学校の在学期間について

井上 弘寿(いのちの森クリニック院長、精神科医、医学博士)

いのちの森・水輪の全寮制フリースクール「生き方と働き方学校」へ入学後、基本的な在学期間は3年となっています。この在学期間に関して、現在在学している方々のカウンセリングをさせていただいている立場から、私が理解し、考えていることを述べたいと思います。

精神障害をもつ方が生き方と働き方学校を卒業し社会生活を送る上で、精神症状や精神状態の程度はもちろん重要ですが、それ以上に、生活機能、職業機能、対人関係機能のレベルが重要となります。さらに、それらの機能の基礎にあるパーソナリティ機能が重要です。

一般の精神科医療では、精神症状の評価に重きが置かれ、生活機能、職業機能、対人関係機能、パーソナリティ機能の評価は十分になされないきらいがあります。それらの機能を緻密に評価するに足る、生活や仕事、対人関係における詳細な情報、自己と対人関係に関する本人の内面に関する詳細な陳述を得るための体制が、通常の精神科医療にはありません。その点、生き方と働き方学校では、生活、実習、対人関係において緻密な観察がなされ、本人の内面についてもカウンセリング場面のみならず、生活場面での陳述、行動の詳細な情報が得られ、社会生活を送る上で重要な機能を評価し、生活場面での具体的な課題に一つ一つ取り組むことができます。

生活機能、職業機能、対人関係機能、パーソナリティ機能を高めていくことが、生き方と働き方学校における目標の一つです。つまり、生き方と働き方学校における生活と実習は、それらの機能を高めるリハビリテーションであると言えます。それらの機能はいずれも、数か月というレベルで目に見えて良くなるという性質のものではありません。生き方と働き方学校の理念と目的に基づき綿密にプログラムされた生活と実習を真剣に重ねる中で、日々薄紙を重ねるように少しずつ、それらの機能が高まっていきます。数年という単位で経過を見てはじめて、変化に気づかれます。こうしてじっくりと年月をかけて、着実に身につけた力、営々と築かれた自己が本物です。

目先の状態の動揺に一喜一憂するのではなく、1年、2年、3年と真剣な実践を続けることです。精神症状が強く、生き方と働き方学校の実習プログラムに乗れないうちは薬物療法が主となります。症状が安定してはじめて、リハビリテーションの緒に就くことができます。そこから3年、生き方と働き方学校の厳しくも温かい、人格をつくる実践が始まります。

入学の前提となる最も重要なことは、生き方と働き方学校の理念と目的を深くご理解いただくことです。そのうえで、入学する目的と覚悟を決めてください。

「真のリハビリテーション」とは、その人本来の偉大な力が発揮されることを目指す、生活全体の、全人間的な取り組みです。生き方と働き方学校では、「生き方」や「働き方」という根本を見つめなおします。利他を中心に据えたとき、入学した方のその時の感じ方、考え方、行動、対人関係はどうだったのか、そして今からどうしていくのか。ともに考え、話し合い、行動に移していきます。その絶え間ない実践の繰り返しの中で、人格が高まり、「いのち」が良くなっていきます。

いのちの森・水輪について――私の実感と考え

いのちの森クリニックは、2011年、いのちの森構想の一環として、塩澤ご夫妻により開設されました。初代院長は、私の学生時代からの恩師である巽信夫先生(前信州大学医学部精神医学教室助教授)です。

巽先生は、クリニックの開院に際して、「合理性や生産性追求を至上とし、高度情報化に伴う無縁社会」において「人間疎外化」が起こり、「自然と人間との生きたつながりの喪失にこそ、現代病の根源がある」と指摘され、「人間が自然の子としての存在の原点(いのちの存在)に立ち返ることにこそ、まさに人間再生への道がある」と喝破されました。

人と人、人と自然との生きたつながりを通して、個々人が人間存在の原点に立ち返り、病を克服し人間性を深化させていく医療的な援助を行っていくことが、いのちの森クリニックの使命です。

私がいのちの森・水輪と出会ったのは、10年以上前、信州大学医学部附属病院で研修医として勤務していた頃のことです。巽先生のお誘いで、いのちの森・水輪で巽先生が開かれた精神医学の講座に参加させていただきました。その後、年に2,3回、いのちの森・水輪にて1泊2日でセミナーをさせていただきました。

2018年1月からは、巽先生の後任として、全寮制のフリースクールである「生き方働き方学校」に集う、精神障がいをもつ青年達の主治医として、いのちの森クリニック、および私が常勤として勤務する医療法人碧水会・信濃病院において診療してきました。

いのちの森・水輪に集う青年達をサポートする中で実感するのは、病状が良くなるだけでなく、人格的に成長し続けているということです。

現在の精神科医療では、病状を良くすることはできても、人格水準を一定以上に高めることは難しい。それは、医療の範疇を超えるからかもしれません。しかし、精神科臨床の要は、あくまで自己の確立と対人関係に関わる「人格」だと私は考えています。その点で、いのちの森・水輪は、現在の精神科医療の限界を超えた新しい医療と教育のモデルを提示しています。

人格の機能の重要な一側面として、「自己指向性(self-directedness)」という概念があります1)。自分で自分を方向づけていく主体性・自律性の機能です。私は精神科医として、いのちの森・水輪での生活実践の継続により青年達の自己指向性の機能が高まっていることを、彼らとの数年単位にわたる関わりの中で実感しています。

青年達は水輪で、「人間と自然との生きたつながり」の中にどっぷりとつかり、これまで生活してきた「無縁社会」とのギャップにもがきながらも、日々、生き方と働き方の教育実習に挑戦しています。青年達は本音でぶつかり合います、塩澤ご夫妻にも本音でぶつかっていきます。

対人関係を避け、自宅に何年も引きこもっていた青年も、本気で主張するようになっていきます。水輪における真実の人間対人間の打ち合いの中で、自己指向性を含む人格の機能が高まっていくのです。

私は精神科医として10年以上にわたりいのちの森・水輪と関わっていますが、その真実は自己指向性を含む人格機能を高める人間的実践の稀有な場所であると断言します。

この無縁社会においてなぜ、いのちの森・水輪では人間としての真の切磋琢磨ができるのか。それは、安心感があるからです。精神障がいをもっていようが、生活に課題があろうが、関係ない。ある意味厳しく、ありのままを受け入れる。「いのち」の尊厳をみつめ、人間的成長を信じる。「あなたはもっと良くなる」「あなたには素晴らしい『いのち』がある」という塩澤みどり先生の確信に満ちた声がいのちの森・水輪には常にこだましています。この安心感があるから、真の人間対人間の「いのち」の交流がもてるのです。

安心感の淵源には、重度心身障がいをもって生まれた塩澤ご夫妻のご息女・早穂理さんの存在があります2)。塩澤ご夫妻は、在宅で、ありのままの早穂理さんに対し、壮絶な苦悩の中で無条件の愛を貫いてきました。早穂理さんは本年44歳となられました。早穂理さんとの間で掘り下げられ、磨き抜かれた無条件の愛は、いのちの森・水輪に集う青年達一人一人にも注がれ、彼ら彼女らの人格的成長の土壌となっています。

いのちの森・水輪の精神性に基づいてはじめて、従来の医療では対応が困難な生活機能と職業機能を向上させ、人格といのちを高めていくことができます。いのちの森・水輪に抱かれたいのちの森クリニックは、日本の精神医療、ひいては人間教育の新しいモデルとなり、合理性や生産性を至上とする現代社会に一石を投じる使命があります。

そのためには、今、サポートを受けている青年達が、同時にサポートをする側に回る。その連鎖と拡大によって、新しい医療と教育のモデルが形作られていくのではないかと考えています。

以上、精神科医として私が、いのちの森・水輪の皆様と関わる中で感じていること、考えていることの要点を記させていただきました。

参考文献

  • 井上弘寿、加藤敏:『DSM-5を読み解く―伝統的精神病理, DSM-5, ICD-10をふまえた新時代の精神科診断 5』(神庭重信総編集)、中山書店、東京、pp118-137、

中川奈美(著),塩沢みどり(監修):『早穂理。ひとしずくの愛―重度の脳障害をもつ娘と母の苦悩と癒しの物語』.原書房、東京、1998.

精神の層構造 ~意識と無意識~

井上 弘寿(いのちの森クリニック院長、精神科医、医学博士)

 早いもので、巽信夫先生(元いのちの森クリニック院長・元信州大学医学部助教授)のご紹介で、いのちの森・水輪の皆様と関わって十年程となります。巽先生から引き継ぎ、いのちの森・水輪に集う有為の青年達の主治医として、青年達の治療、更には人間的成長のために、微力ながら関わらせていただいております。

この度、塩澤先生ご夫妻より、いのちの森通信への寄稿の機会をいただきましたので、青年達の主治医として私が精神科医として重要だと思っていることを綴らせていただきたいと思います。

地層というものがあります。土や岩、生物の遺骸などが層状に堆積した堆積物で、基本的に下の層ほど古く、上の層ほど新しい部分となっています。古い層には数億年前の層もあり、古代生物の化石がみられることもあります。普段、大地を歩いていても地層は見えませんが、水の力などで大地が削られ崖などができると、より古い地層が露出してきます。

ちょうど地層のように、人間の精神も層構造をなしています。系統発生は個体発生を繰り返すと言われますが、私たち個人の精神には古代の記憶が刻まれているのです。

意識と無意識。これも層構造です。古い下層が無意識で、新しい上層が意識です。地層と同じように、普段、無意識は意識の下に隠れていて表面には姿を現しません。しかし、精神の病的な状態になると、無意識が露呈してきます。私は精神科医として、普段おもに無意識と向かい合っていると言ってもよいくらいです。

たとえば、強迫性障害という病態があります。手が汚いと思って、何十分も、ときには何時間も手を洗い続けます。そんなに手を洗っても仕方がない、もう十分きれいだ、手が荒れる。そう分かっていても、やはり手を洗わなければ不安である。そういう病態です。ここで、「手を洗っても仕方がない」と〝分かる〟部分が意識です。分かっちゃいるけどやめられない行為に駆り立てる〝不安〟が無意識です。このような事例を通して無意識の影響力の強さを窺い知ることができます。意識の力ではどうにもならないのです。

うつ状態では、これまで好きで楽しかったことがつまらなくなります。前向きな人が、何をやっても失敗する、うまくいかないと悲観的に考えるようになります。好物を口にしても砂を噛んでいるように味がないと言います。このようにうつ状態では、物事の感じ方、考え方が変わってしまいます。同じものを見ても、聞いても、味わっても、感じ方が違うわけです。同じことを考えても、考え方が変わってきます。うつ状態は決して心の持ちようというレベルの問題ではありません。無意識の層を侵す病態なのです。無意識が意識を変えてしまうのです。

統合失調症の幻覚妄想が著しい状態では、意識が更に機能しなくなります。妄想に支配され、言動の脈絡がなくなり、ついには錯乱状態となるか、あるいは昏迷といってほとんど無言無動となり周囲の刺激に反応しなくなります。錯乱状態および昏迷における記憶は通常、欠落しています。そのような状態において、意識はほとんど機能しなくなっていると言ってよいでしょう。

いま、精神医学における代表的な病態を例示しましたが、意識が損なわれ、無意識が支配的となる度合いによって、病態の深度というものを想定することができます。すなわち、強迫性障害、うつ状態、幻覚妄想状態、錯乱状態・昏迷状態の順に病態の深度が深くなります(一~三) 。深い病態ほど、意識が侵され、無意識のより深い層を露呈させると言えます。また、深い病態ほど、より原始的であり、個人差が乏しくなっていきます。

病態深度のより深い病態では、身体的な側面がより大きいことが経験されます。うつ状態を例に挙げると、軽症では身体症状を認めないこともありますが、より重度の病態になると、食欲低下、体重減少、運動機能の低下など、身体症状を認めるようになります。

このことは治療においても当てはまり、深度の深い病態では向精神薬や電気けいれん療法のような身体的治療がより効果的である傾向があります。逆に、病態深度のより浅い病態では、心理的・社会的・教育的アプローチのウエイトが高くなります。したがって、治療の難しさと病態の深度は必ずしも相関しません。たとえば、最も病態深度の深い昏迷には電気けいれん療法が著効することが多く、その場合、比較的短期間で寛解(症状が消失した状態)に至ります。病態深度の浅い、より意識的な病態、たとえば、発達障害やパーソナリティ障害のような病態では、より長期にわたる心理的・社会的・教育的アプローチが必要になってきます。しかし、そのような比較的病態深度の浅い病態においても、無意識に働きかけていく身体的アプローチが有用な場合があります。無意識が意識に及ぼす影響は強大です。したがって、薬物の選択や用量の設定は致命的に重要です。薬物が改善への大きな一手となることもあれば、投薬を誤ることによって悲惨な増悪を招くこともあります。

無意識の影響の強い病態では身体的な側面の関与が大きいと述べました。そのような病態の発症には素因が関わりますが、同時に自律神経やホルモンのバランスを含む体調も関わってくるのです。したがって、治療だけでなく予防という観点からも、体調を整えていくことが肝要です。特に、食事、睡眠、運動という基本的な生活習慣を立て直すことが、自律神経やホルモンのバランスを正していくこと、ひいては精神疾患の発症を予防することにつながります。

脇道に逸れますが、お酒の問題は重要なので少し触れておきます。アルコールは毒です。WHO(世界保健機関)の一機関である国際癌研究機関(IARC)は、科学的根拠に基づき、アルコールを発がん物質と認定しています。また、最新の研究(四)によって、少量の飲酒であれば身体に良いというのは誤っており、少量でも脳を含む身体に悪影響を与えることが示されています。飲酒は、アルコール依存症の契機となるばかりか、百害あって一利なしと言ってよい類の物質であることが明らかになりつつあり、控えることをお勧めします。

精神の層構造の話に戻りましょう。

地学において「褶曲」という現象が知られています。平らな地層が、側方から力を受けて、波状に変形する現象です。

個人における精神の層構造は、褶曲によって生じた波状の地層になぞらえることができます。ここで無意識の深層は、個人と個人の間をつないでいます。個人における生命の成立根拠になるとともに、コミュニケーションや出会いの基盤となっています。この無意識の深層がより上方の個人的な無意識および意識に及ぼす影響は甚大です。したがって、精神障害の治療、ひいては個々人の人間的成長のために、人間関係における体験の積み重ねが大切になってきます。

「いま、ここ」に生きるというのは、精神の層構造という見地からは、無意識の深層とチャンネルを合わせ、意識と無意識が統合した状態で生きるということです。意識と無意識が統合している程、健康度が高い状態と言えます。意識と無意識の乖離は心身の不調を生む契機となります。

いのちの森・水輪で青年達は、清浄な自然環境の中、規則正しく健康的な生活を送っています。早穂理さんを原点とした深く壮大な理念に基づき、塩澤先生ご夫妻を師として、仲間達と切磋琢磨しながら、生活に根差した日々の仕事に地道に取り組んでいます。

いのちの森・水輪には、精神疾患の回復、ひいては人間的成長への類を見ない理想的な環境が整っていると感じます。

パーソナリティ ~人生の目的は人格を高めること~

井上弘寿(いのちの森クリニック院長、精神科医、医学博士)

 フラクタルという概念が幾何学にあります。部分を拡大すると全体となり、全体を縮小すると部分となるような特徴をもつ図形のことです。フラクタルは、私たちの血管の分岐構造や小腸の内壁構造、シダの葉の構造など、身近なところに潜んでいます。有限の体積の中に無限の表面積を包含する、自然界の合理的なパターンです。

さながらフラクタルのように、私たちの感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方は、相対する人や状況が変わっても、似たような形で繰り返されます。恋愛、友情、キャリアのような人生の大きな局面で私たちがとる行動は、時を経ても一貫している傾向があり、しばしば同じ種類の成功や失敗を繰り返します。それだけではなく、買い物をしたり、身支度をしたり、電車内で見ず知らずの人に話しかけたり、といったちょっとした交流場面での行動が、人生全体から見えるものと同じタイプのパターンを見せることがあります。このような、ある個人に特有の感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方のパターンのことを「パーソナリティ(personality)」と言います。

過去、どのような対人関係をもってきたか、どのように仕事をしてきたか、人生の遍歴を詳しく辿り、現在の対人関係の在り方、物事に対する考え方を把握する中で、パーソナリティの特徴が徐々にあぶり出されてきます。ある人のパーソナリティを知れば、その人の今後の行動や将来の展開が少し予測できます。

精神医学では、パーソナリティはもともと「人格」と訳されていました。なぜ人格ではなくパーソナリティと呼ぶようになったかと言うと、人格という言葉が価値的・倫理的な意味合いを帯びるためです。優れた人格の持ち主を「人格者」と呼びます。一方、「人格障害」という診断名は偏見を助長するということで「パーソナリティ障害」に変更されました。このように人格には優劣をつけることができると想定されます。他方、パーソナリティに優劣はありません。

臨床の現場で私たちがどのようにパーソナリティを評価しているかお伝えしましょう。ここでは、精神医学において最も一般的に用いられている、アメリカ精神医学会による『DSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル第五版)』に基づいて紹介します。

パーソナリティは、「パーソナリティ機能(personalityfunctioning)」および「パーソナリティ特性(personality trait)」という二つの軸から評価します。

パーソナリティ機能には高い低いがあり、機能を高めることを目指します。一方、パーソナリティ特性は個性であり、基本的には、変えるのではなく、活かすべきものです。

パーソナリティ機能は、「自己」および「対人関係」の領域における機能として評価します。自己の領域における機能は「同一性」と「自己指向性」という観点から評価し、対人関係の領域における機能は「共感性」と「親密性」という観点から評価します。

例えば、同一性における感情の機能を評価する際には、感情の幅と統制に着目します。普段の何気ない光景に活き活きとした感動を得る詩人のような幅の広い感情を持ちながらも、何があっても泰然自若としている。その場合、感情の機能は極めて高いと考えられます。一方、何を見ても聞いても絶望しかない。心の中は灰色一色。怒りの統制がきかず、いつも暴言を吐き、暴力をふるう。このような場合、感情の機能はとても低いです。豊かな感情を持ち、それでいて感情に流されず、感情を導いていける機能水準を目指します。

人生の価値ある一貫した大目的を常に見据え、そこから逆算して年単位、月単位、日単位の具体的な目標を設定して日々の課題を着実にこなしているなら、自己指向性は高いと考えられます。一方、目的も目標もなく、日々指示されたことだけをこなすようであれば、当然、自己指向性の機能は高いとは言えません。

あの人は自分のことを悪く思っているのではないかと何の根拠もないのに考えるのであれば、共感性は低いと言えます。他者の気持ちや意図、考えていることを正確に読み取ることができれば、共感性(メンタライズの能力)は高い。また、人が悲しんで涙を流すと、自分も悲しくなって泣いてしまうようなケースは、共感性(エンパシー)が高いと評価します。

引きこもってゲーム三昧だった生活から、他者と共同生活をし、協力して仕事に取り組む。これは親密性の機能を高めていく実践となるでしょう。

次に、パーソナリティ特性というのは、感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方のパターンのより具体的な側面を抽出したものです。パーソナリティ特性は、高次のより一般的な特性を指す五つの「特性ドメイン(trait domain)」と低次のより具体的な特性を指す二五個の「特性ファセット(trait facet)」に分類されています。ここでは、紙幅の都合もあり、五つの特性ドメインについてのみ端的に解説します。

(一)「否定的感情」高いレベルの幅広い否定的感情(例.不安、抑うつ、罪悪感/羞恥心、心配、怒り)を頻繁かつ強烈に体験し、それらの否定的感情が行動(例.自傷行為)および対人関係(例.依存関係)に現れることです。対極にある特性は「情動安定性」です。

(二)「孤立」社会的・情緒的な体験を回避することで、何気ない日常の交流から友人関係、親密な関係に至るまでの対人交流から引きこもること、および制限された感情体験と感情表出、特に快感を得る能力の制限です。対極に位置する特性は「外向性」です。

(三)「敵対」他人との関係を悪化させる行動をすることです。尊大さの感覚が誇大であること、特別扱いへの期待を伴うこと、他人への冷淡な反感、他人の欲求や感情に気付かないこと、および自己を高揚させるために進んで他人を利用することを含みます。対極にある特性は「同調性」です。

(四)「脱抑制」即座に得られる満足への指向性のことです。それは現在の考え、感情、および外的刺激に駆られた衝動的な行動につながり、過去の教訓を顧みること、あるいは将来の結果を考慮することはありません。対極に置かれる特性は「誠実性」です。

  • 「精神病傾向」文化的に調和しない奇妙で風変わりで特異な幅広い行動と認知を示すことです。プロセス(例.知覚、解離)および内容(例.信念)の両方を含みます。対極に位置する特性は「清明性」です。

パーソナリティ特性は、「あるかないか」という質的な概念ではありません。「誰しもある程度その特性をもつ」という量的な概念です。

精神科臨床では通常、パーソナリティ特性の不適応的な極(例.否定的感情、孤立)に関心が集まりますが、その対極にはレジリエンス(ストレスを跳ね返す力)につながる適応的なパーソナリティ特性(例.感情的安定性、外向性)が位置しています。

極端なパーソナリティ特性は、パーソナリティ機能の低下、および生活機能・職業機能の低下につながり、薬物療法を含む精神科的介入を必要とする場合があります。しかし、生活機能や職業機能の低下につながらないパーソナリティ特性のプロファイルは、その人の個性と捉えるべきです。

ここで留意すべきは、通常適応的なパーソナリティ特性が常に適応的であるとは限らず、その逆もまた然りであるということです。

例えば、否定的感情(神経質)は不安障害やうつ病など精神障害のリスクとなります。しかし、その特性が良い面として発揮されれば、細かなことに配慮できたり、良い意味で慎重な判断ができたりするポテンシャルとなるでしょう。不安を燃料としてより努力できるという側面もあると思います。

孤立を好む傾向がある種の勉強や研究に有利に働く場合もあるでしょう。

敵対の傾向を多く持つ人は冷淡である反面、感情的に安定し抑うつ的になりなくい傾向があります。

脱抑制の傾向が強い人は、アルコール依存などの依存症にかかりやすいですが、その傾向が良い方向に働けば、臨機応変の柔軟な対応をしやすい場合があります。

精神病傾向は、統合失調症をはじめとする精神病性障害のリスク因子となりますが、芸術性の高さに寄与することがあります。

大事なことは、個性としてのパーソナリティ特性を把握したうえで、パーソナリティ機能を高めていくことです。

こうすればパーソナリティ機能が高まるという精神医学的に確立された知見はありません。しかし私は現に、いのちの森・水輪に集う青年たちが切磋琢磨しながらパーソナリティ機能を高めている成長の過程に臨んでいます。

いのちの森・水輪は稲盛和夫氏の人生哲学・経営哲学を学ぶ「盛和塾」の長野事務局をつとめていますが、稲盛氏は、人生の目的は「心を高めること、魂を磨くことにある」と喝破しています。高い水準の心・魂は、高い水準の人格として現れますので、人生の目的は人格を高めることにあると言ってよいでしょう。

自己と対人関係に関わる人格を高めること。それは精神医学の根幹であると信じますが、精神医学を超えるテーマでもあります。この問題についてはまた次の機会に考えたいと思います。

いのちの健康を育む ~人間の身体、精神、霊性、社会をみつめて~

この度、学生時代からの恩師である巽信夫先生(前信州大学医学部助教授)の後任として、いのちの森クリニックの院長を、塩澤みどり先生より拝命しました。

クリニックの使命は一般に、病気の治療と健康の増進にあります。しかし、病気とは何か、健康とは何かと問われると少し答えに窮するのではないでしょうか。病気の治療と健康の増進を図っていくにあたり、本稿では健康と病気の捉え方について考えたいと思います。

健康とはどのような状態を指すのでしょうか。健康の対義語が病気や病弱だとすると、病気と診断されない場合、健康と考えてよいのでしょうか。

この問題を考える際、WHO(世界保健機関)による健康の定義(一九九八年の提案)が参考になります。

健康とは、身体および精神が良い状態であるのみならず、霊的・宗教的次元での魂が良い状態であるか、さらに社会的に良い状態であるかまでもが問われることに注目すべきです。つまり、真の健康を実現するためには、霊的次元、社会的次元を良くすることが必要なのです。霊的次元は「生き方」という一面に表現され、社会的次元は「働き方」という一面に表現されます。生き方を良くすること、働き方を良くすることがすなわち、健康に直結するということです。

そして健康とは動的な、ダイナミックな状態(dynamic state)であるとされます。このことは、健康と病気とは「そうであるか、そうでないか」という固定した質的な概念ではなく、健康と病気は連続した量的な概念、あるいは、せめぎ合いながら顕在・潜在し共存するものであることを示唆していると思います。健康な状態、病的な状態はともに、刻一刻、移ろう、動きのあるものです。したがって健康とは良くしつづけることによって絶えず獲得し高めていくものであると言えます。

さらに、健康とはウェルビーイング(well-being)な状態であると定義されます。ウェルビーイングは、「幸福」と訳されることが多い言葉ですが、直訳すると「よくなりつづけること(being well)」です。「良くなりつづけること」、「善くなりつづけること」が「幸福」であるということになります。

したがって、何が「良い」のか、「善い」のか、ということが大問題です。この問題は一般論としてではなく、一人一人の具体的な状態、行動、生活の在り方と生き方に即して繰り返し向き合っていく必要があります。

生きることの全体を、ホリスティック(全人的)に、系統的に整理して捉える上で、WHOによるICF(国際生活機能分類)(一)~(三)の考え方が役立ちます。

ICFでは、人が生きることの全体像を「生活機能(functioning)」という鍵概念によって把握します。ここで原語が〝function〟という名詞ではなく〝functioning〟と動名詞になっていることは、健康と同じく、生活機能もまた動きのあるダイナミックな概念であることを示唆しています。

一番上にある「健康状態」には、病気や怪我だけでなく、妊娠、高齢(加齢)、ストレスを抱えた状態など、生活機能に問題を生じる状態が広く含まれます。「生活機能」は「心身機能・身体構造」、「活動」、「参加」という三つの側面から構成され、これらと相互作用する因子として「環境因子」と「個人因子」という二つの因子を考慮します。

「生活機能」の三つの側面とそれに影響する二つの因子について説明します。

「心身機能・身体構造」では、人間の身体的・生物学的な次元を問題とします。「心身機能」とは、例えば、精神の働き、視覚・聴覚などの感覚機能、心血管系の機能、免疫系の機能、消化器系の機能など、あらゆる心身の機能を指します。「身体構造」とは、脳神経系、眼・耳などの感覚器官、心血管系の構造、免疫系の構造、消化器系の構造など、心身機能を司る身体構造のことです。

「活動」では、個人における生活行為の次元を問題とします。例えば、歩行、食事、排泄のような日常生活行為(ADL)をはじめ、調理、清掃、農作業、事務作業など生活上必要な行為は全て「活動」に分類されます。

「参加」では、社会および人生の次元を問題とします。例えば、家庭における役割、仕事における役割、地域の活動に参加することなど、家族や社会に関与し、そこで役割を果たすことを「参加」と言います。

「環境因子」とは、建物や交通機関、自然環境のような物質的環境、家族や仕事上の仲間、医療者のような人的環境、医療制度や福祉サービスのような制度的環境、社会が障害をもつ人をどう捉えるかという社会意識としての環境などを指します。

「個人因子」とは、年齢、性別、学歴、職業歴、家族背景、パーソナリティ特性(感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方のパターン)、ライフスタイル、価値観、生き方など、多種多様な個人に固有の特徴のことです。

ここで重要なのは、健康状態、生活機能を構成する心身機能・身体構造、活動、参加、環境因子、個人因子がそれぞれ相互作用するということです。あらゆる生活機能の各側面、因子のプラス面、マイナス面が複雑に相互作用していると考えられます。

例を挙げましょう。うつ病という健康状態において、意欲低下という心身機能の障害が起こり、その結果として事務作業ができないという活動の制限、さらに仕事をするという社会的あるいは家庭的役割が果たせないということが起こります(参加の制約)。これは、心身機能の障害によって活動の制限、参加の制約が生じるという因果関係です。

逆方向の因果関係もあります。例えば、長い間家に引きこもって何もしない、あるいは何年も精神科病院の閉鎖病棟に入院している場合を考えましょう。活動が制限され、社会への関与が乏しい状況が長く続けば、使わない心身機能・身体構造が徐々に低下していきます。廃用症候群という現象です。これは、活動が制限され、参加が制約された場合に心身機能・身体構造が障害される例です。

このような相互作用は治療を考える上でも重要です。うつ病に対し抗うつ薬を投与すると、意欲が改善します。すると、活動の質、量ともに向上し、活動範囲が広くなります。うつ状態では果たせなかった仕事や家庭における役割を果たせるようになります。これは抗うつ薬によって心身機能・身体構造という身体的・生物学的側面に直接働きかけた結果、活動と参加が改善する例です。同時に、治療においてはお薬のような生物学的アプローチのみならず、活動や参加に働きかけることも有効です。例えば、農作業や事務作業という活動を与える、一般就労が難しい場合にも何かやりがいのある仕事という役割を与えることが、身体を鍛え、意欲を高め、自己肯定感を増すことに寄与することがあります。これは、活動や参加に働きかけることによって心身機能・身体構造を良くするというリハビリテーション的アプローチです。

精神障害によって生活機能が低下すると、家族や職場の人々に大きな影響を及ぼします。これは、生活機能が人的環境(環境因子)に作用する例です。逆に、家庭や職場の人間関係は良くも悪くも精神状態(心身機能)に大きな影響を与えます。私たち精神科医が行う精神療法(カウンセリング)は、ICFの立場から考えれば、人的環境環境因子を介して精神状態(心身機能に良い影響を与えようとする試みです。

個人因子として例えば、個人のライフスタイル、価値観、生き方は生活機能に大きな影響を及ぼします。食習慣、運動習慣、飲酒、喫煙などの生活習慣は、高血圧、糖尿病などの生活習慣病(lifestyle-diseases )の発症に深く関与し、さらに悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患という三大死因との関連も強いことが明らかになっています。また、個人のライフスタイル、価値観、生き方は、日常的な活動の選択に影響を与えますし、職業選択という形で長期的な活動、参加、環境因子にも影響を与えます。逆に、選択した職業における活動や参加は、ライフスタイル、価値観、生き方という個人因子に影響を与えます。

このような心身機能・身体構造、活動、参加、環境因子、人因子の相互作用からなり、人間の身体的、精神的、霊的、社会的な側面を包括するのが、「いのち」です。一人一人の健康と人格の水準を高め、深め、「いのち」をよくしていくこと。それが、水に生じた波紋のように広がり、他者、社会をもよくしていくのだと信じます。まず一人一人がこの上なく大切です。いのちの森クリニックでは一人一人の「いのち」をよくしつづけていく実践に日々、地道に取り組んで参りたいと思います。

いのちの森クリニックにおける治療の実践と展望 ~精神科医療の現状を踏まえて~

井上 弘寿(いのちの森クリニック院長、精神科医、医学博士)

 精神科医療の目的は、精神障害をもつ人が良くなるサポートをすることです。

しかし、現在の一般的な精神科医療では、「精神障害」にばかり目が行き、精神障害をもつ「人」に対する視点はなおざりにされがちです。「病を診て人を診ず」という状況です。そこでは、薬物療法に偏重した五分診療となっており、身体・精神・社会という側面をもった一人の人間としての患者さんの「心」、生活や職場で起こった具体的な問題は、ともすれば診療に関係のない話として切り捨てられます。五分診療が生まれる背景には多くの患者さんが来院し、一人一人に時間をかける余裕がないという状況、また、多くの患者さんを診なければ医療機関の経営が成り立たないという事情があります。しかし、より根本的には、精神障害は単に脳の病気であるという即物的な疾病観、患者さんの心の問題や生活上の出来事を吟味せず解決法を薬の問題に帰着させてしまう姿勢が五分診療を可能ならしめていると思われます。

このような問題意識から、いのちの森クリニックは、精神障害をもつ人が本当に良くなるための精神医療のモデルを築き実践する場として、巽信夫先生(元信州大学医学部助教授)を初代院長として2011年に設立され、2019に筆者が院長を引き継ぎました。現時点では、理念と方針に賛同された、主に「生き方働き方学校」入所中の方々を対象とする自由診療のクリニックです。

精神障害とは、一連の精神症状によって、生活機能・職業機能が低下した状態です。例えば、気分が重く、落ち込んで、くよくよと過去に捉われ、何事も悲観する。万事億劫になり、周りに迷惑をかけるから家事や仕事をしなければならないと思っても、身体がついていかない。好物も砂を噛むように味気なくなる。お金の心配、罪悪感、自分は何か重い病気にかかってしまったに違いないと不安に苛まれ、眠れない。このような一連の精神症状(抑うつ状態)が出現し、生活や仕事に障害のある状態が、大うつ病性障害(いわゆるうつ病)です。

精神障害は、一般的な身体疾患のように血液検査や画像検査のような客観的所見に基づいて診断することができません。患者さんの陳述と行動によって精神症状を評価し、生活や仕事の状況によって生活機能や職業機能の障害を評価することによって診断します。

当クリニックでは、ご本人からの十分な陳述による情報に加え、生活と実習を共にする看護師二名を含む経験豊富なスタッフの方々から、日々の発言、行動、出来事、生活や実習の状況についての詳しい情報を得ることによって、精神症状と生活機能・職業機能の評価を行います。ご本人に関する多角的で豊富な情報が得られることは当クリニックの強みの一つです。

精神障害の原因は未だ分かっていません。しかし、精神症状の基盤には、精神活動を司る脳を中心とした身体があることは確かです。脳や身体、およびそれに作用する物質は、精神における無意識の領域を司り、意識にも大きな影響を及ぼします。例えば、精神医学的に何ら異常のなかった人が、自己免疫疾患に罹り、多量の副腎皮質ステロイド剤を服用することによって、躁症状や幻覚妄想などはっきりとした精神症状を呈することがしばしばあります。

意識を含む精神に対し、脳や身体、およびそれに作用する物質の影響がいかに甚大であるかを物語る事例です。治療で用いる薬物も、脳や身体に作用する物質の一つであり、意識を含む精神に多大な影響を与えます。

一方、意識を含む精神もまた脳および身体に大きな影響を与えます。意識を変えることで行動が変わり、脳や身体にも変化が生じます。例えば、意識的に運動をすると、脳や身体に良い影響を与えます。運動には抗うつ効果があることも分かっています。精神の状態は、その方の感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方に表現されます。他方、行動や対人関係もまた精神の状態に大きく影響します。その方の感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方が長期間持続し、様々な状況において繰り返しみられる場合、パーソナリティや発達の問題を考えます。

精神障害の診療においては脳・身体、意識・無意識、パーソナリティ・発達という相互作用する次元を詳しく評価する必要があります。さらに、個人における生活行為としての「活動」という次元、家族や社会に関与し役割を果たす「参加」という次元、物質的環境や人的環境のような「環境因子」、個人の家族背景や価値観、生き方を含む「個人因子」の関わりも考慮にいれなければなりません(参考文献四)。このように、精神障害とは多種多様な因子が複雑に相互作用しながら絡み合って生じてくるものです。精神障害のもつ複雑さや不確実性に耐えられず、安易な単純化をすることは避けなければなりません。精神障害をもつ方を様々な角度からホリスティックに診ていくというのがいのちの森クリニックの立場です。

治療の目的は一連の精神症状を改善し、生活機能と職業機能を高めていくことです。そのためには、脳・身体、精神・行動生活・仕事という全ての領域において治療およびリハビリテーションを行うのが最も効果的です。精神障害をもつ人を良くするという目的のために、ある領域における治療に偏らず、全ての領域からのアプローチを同時並行で実践していくのが、いのちの森クリニックの治療方針です。

脳および身体に働きかける治療が薬による治療です。当クリニックは薬物療法に偏重しませんが、薬物療法も非常に重要と考えています。

精神障害は単なる脳の病気に還元されるものではありませんが、脳の病気(失調)という側面があることもまた揺るぎのない事実です。

例えば、うつ病や躁うつ病に薬物療法が有効であることは臨床と研究に裏打ちされた確かな知見です。意識で全てをコントロールできるというのは、意識が肥大化した人間の傲慢な考え方です。このような傾向は躁状態で先鋭化します。躁状態が行きつくところ、身の回りのことすら自分でできない状態にも関わらず、「自分は全知全能の神である」と確信する現実離れした誇大妄想の状態に至ります。このような状態において薬は拒否されます。自分の力で治る、否、そもそもこの状態(躁状態)は病気ではない、と。しかしその意識とは裏腹に、躁状態にお薬は著効します。

このように、とりわけ薬物治療においては、意識のコントロールから外れる、より原始的な身体性の次元を重視します。

意識と無意識、行動、対人関係上の問題にアプローチするのがカウンセリングです。意識を変えることによって、無意識から来る考え方や行動を変容させることを目指します。どのようなカウンセリング手法を用いるかはその方の状態によりケースバイケースとなります。

認知行動療法という技法では感情が大きく揺れ動いたときに起こる、ネガティブな考え方の癖を見出し、ポジティブな考え方で捉え直していくという意識的な訓練です。当クリニックでは、宿題として毎日の生活の中で一人一人に取り組んで頂ていますが、自分自身でネガティブな考え方の癖に気づき、別の有効な考え方を提示することは必ずしも容易ではなく、カウンセリング場面でも認知行動療法を行っています。

精神分析療法は、その人の感じ方、考え方、行動の仕方、対人関係の持ち方、ひいてはこれまでの人生の背景にある無意識の部分に気づく(意識化する)ことを通して、その方のこれまでのパターンを変容させていく精神療法です。従来の精神分析療法は流派による排他的な理論や手法がありますが、いのちの森クリニックでは、特定の流派に縛られず諸流派の理論を踏まえた上で、その方の成育歴、ご両親との関係、これまでの感じ方・考え方・行動・対人関係のパターン、現在の生活や実習における課題を丹念にたどって分析を行い、その方がもつ無意識のネガティブなパターンに気づき、それを自ら変えていくことを支援しています。

生き方働き方学校における日々の生活・実習は、生活機能・対人関係機能・職業機能を高めていくリハビリテーションです。

リハビリテーション(rehabilitation)とは語源をたどれば、「本来の相応しい状態へ戻ること」という意味です。本来の自分、本来の素晴らしい「いのち」を取り戻すということです。「いのち」というのは、一面では身体、一面では精神、一面では人と人とのつながり(社会)、一面では個体を超えた大いなる生命(霊性)のことです。要するに、世界保健機関(WHO)が提唱する、身体的(hysical)、精神的(mental)、社会的(social)、霊的(spiritual)な健康を志向する、日々の絶え間ない実践が真のリハビリテーションであると考えます。

現在行われている精神科リハビリテーションは、実質的にレクリエーション活動であったりパソコンの操作法を身につけるような技能訓練であったりするプログラムが一般的です。人間関係は、軋轢が生じないよう距離がとられます。

「生き方と働き方学校」では、飯綱高原の静謐な自然の中、「生きること」に直結した規律正しい生活実践を全て自分達で行い自然農園での農業をはじめとする実習で「働くこと」の基礎を着実に身につけていきます。24時間、生活を共にする仲間との人間関係は濃密です。精神障害を良くすることはもとより「人が良くなる」ための真のリハビリテーションがここにあります。

ただし、精神障害が良くなる人が良くなるといっても、何か固定した理想的な状態があるわけではなく、時々刻々と移り変わるダイナミックな状態の中「絶えず良くなり続けていこう」とする不断の実践の中にこそ「改善」の実相があると考えます。

いのちの森クリニックおよび生き方と働き方学校では、薬物療法、カウンセリング、リハビリテーションを治療における三本柱として、「精神障害をもつ人が良くなる」絶え間ない実践を継続していきます。(2021年いのちの森文化財団理事にご就任頂きました。)

生き方と働き方を学び、自分を変える日常生活

巽 信夫氏 前信州大学助教授いのちの森クリニック顧問

森田療法、内観療法に学びつつ、精神医療に携わり40 年以上になる。この間、思春期、青年期-壮年期-老年期といった各ライフステージにおいて、心を患う様々な方と関わってきた。この関わりを通じ障がいや病気にはそれなりの意味があり、とりわけ人間が生きるということと深く通じていること、及び当人をとりまく時代的、社会的状況とも不可分であることを学ばされてきている。
とりわけ昨今のモノ的文明の飛躍的発展に伴う人間疎外の深刻さは、老若男女を問わず加速化し、まさに時代の光と陰を物語っているとも言えよう。それだけに技術革新や情報社会の恩恵に浴しつつも、人間がその主人公となる道筋の開拓こそ、最大の今日的テーマといっても過言であるまい。このような状況下、すでに水輪にあっては、いのちの本源に立ち返り、人間再生に向けての本格的な取り組みを実践され、地道ながらも着実にその活動の輪を広げてこられた。まさに、21世紀が真に求める画期的なコミュニティー大学モデルの提示ともいえ、生活体験に根ざした生きた人間学発信の場として今後の活躍を心から願うものである。

今まで体験してこなかった“人が良くなる”という事実を目の当たりにして感じたこと

いのちの森クリニック顧問  巽 信夫

 私は縁あって、いのちの森水輪の青少年育成センターを担当させていただき、10 年以上になります。とりわけ、心の未熟性や、障がいを患った方々との向き合いを通じ、最近“改めて実感していることを、この機会に振りかえってみる”というテーマに置き換えて述べてみます。
まず、既にご存じの方も多いかと思いますが、飯綱高原という人里を離れ、大自然に包まれた生活治療共同体という環境の下にあって、無化学肥料、無農薬を旨とする自然農法という農業とのかかわりを中心に、合わせて併設されている宿泊施設の職場復帰実習・訓練(社会参加トレーニング)を通し、お客様により良い空間を提供することが、入所されている青少年の日課となっています。
しかも、テレビやラジオ、インターネット、新聞、携帯、ファッション、性産業といった情報との接触手段を控え、外界と距離を置いた環境下での、規則正しい生活が、彼らが日々成長していく基盤ともなっています。
喧噪と騒音と昼夜逆転の不規則な生活習慣、不摂生な食生活と外食や添加物による偏った食事など、心と体の不調、テレビやパソコン、電磁波を浴びた健康被害、不適切な情報の洪水といった自然から離れた人工的な現代という病理を持つ社会から距離を置き、自然とのふれあいを中心とした自然を生活の中に取り入れた生活治療共同体の中で、誰にも分ってもらえない虚しさや孤独や不安からの解放、実習を通して仲間とつながり合う喜びなどは、人が人として成長するため、不可欠な条件を備え、自分を取り戻した心が病を癒していきます。本当の自分を取り戻していく、心が病を癒していくということは、自然環境の中でいのちの乱れが本来のリズムに調整されていくプロセスでもあり、また来訪者としての人(お客様)との関わりも、自ずと世間話しや雑談をひかえ、世間が忘れてしまっている貴重な自然環境の中に身を置くと客観的な視点から本質を見極める力や、真の礼儀を学ぶ心が磨かれ育ち、人への関わりが薄かった自分の中に、他者を見出し、他への思いやりの心を育てることができるようになっていきます。
更に、毎日毎食のグループミーテイングや、勉強会を通して相互に切磋琢磨する対話交流の時間も設けられています。つまり、いのちの森水輪は自然環境を背景に、他者との生きた関わりを通し、“人として内的にも外的にも成長を促す母壌”であるともいえましょう。
ここで、その具体例を紹介してみましょう。ある日、ご両親に付き添われて、A君はいのちの森水輪に滞在することになりました。その人となりや、知的水準自体に、積極的な問題はみられませんでしたが、生い立ちをうかがいますとご両親はともに仕事に多忙で、幼少時から、ゲームをあてがわれ、そのゲームの世界でのみで育ってきました自らを、“ゲーム脳”と称し、中学入学頃には、人としての自立が求められだす段階にもかかわらず、学校生活にはなじめず、「お月さまでも、自分の手でとれる。」と、真顔で話す姿に、まさに“幼児的万能感”の世界に留まっている実情がうかがわれました。人間の成長は、母親をはじめとし、父親や友人等、他者との生きた相互関係を通じ、時間をかけて段階的に育まれてくることは、発達心理学の教えるところです。A 君の場合、いのちの森水輪での生きた人間関係を通じ、数年以上かけて、人としての成長課題と向き合いつつ、本来の姿に立ち返り始めました。
その際、現実世界とのかかわりに際し、その一歩を踏み出すことに不安があったため、薬物療法の併用も必要でしたが、あくまで補助的な活用でした。もとよりA 君の良くなった背景として、それまで培ってこられた“みどりさん”との厚い信頼関係が基盤となってきたことは、言うまでもありません。現在は大学生活の第一歩の学びを始めています。
次に、Bさんの例です。
この方は、物事を自分で決める事が出来ず、親に勧められて来所されました。B さんは軽度のメンタル障害のため、すでに専門医の外来加療を受けておられた方です。ご家族も同伴され、“みどり”さんと私の同席のうえ、1 時間以上かけ合同カウンセリングを続けました。B さんの根底にある大きな不安感を理解しつつ、話を聞くことを主として向かい合いました。当初は、幼少時の母親との関わりに課題があり、自分の存在が受け入れてもらえなかったというのがその主旨でした。しかし、実際にお母さんとも会い、B さんの現実参加困難に、母親として心配され、B さんの回復にさまざまな角度から、きめ細かく、気づかっておられる実状が伺えました。
そして次第に、幼少時のB さんなりの“心的外傷体験”が根強く潜在し、その思い込みで、がんじがらめにされている実情が浮かび上がってきました。このカウンセリングの後半に、偶然にも受験されていた学校から合格の報が届きました。その際も、実際に進学するか迷っておられましたが、全く嫌でない限り、“とりあえず自己判断に即し、一歩前に進むこと”を、みどりさんとともに助言し、ご当人なりにも、了解されたようです。このように、根底にある大きな不安を受け止めつつ、自己決定に向けての“補助自我”的サポートをすることも、いのちの森水輪のカウンセリングの一つです。いずれにしろ、メンタル障害の治療や、とりわけ、その成長促進には、“当事者と支援者双方の基本的な信頼関係の構築”が基本となりますが、いわゆる出てきている症状だけをターゲットにした5 分間診療では、簡単に築けるものではありません。いのちの森水輪で何故良くなっていくのか、良くなった人が大勢いる成果の背景には、他の所では、にわかに見出しがたい、まさに24 時間体制で同じ釜の飯を食べながら、寝食を共にし、また実習という働き方の体験と学びを通して、相互の信頼関係の構築に基づく真の生き直し、ひいては“成長に向けての全人的な場”、生活と実習の場の提供こそが、ここいのちの森水輪にはあるといえるでしょう。
言い換えれば、いのちの森水輪は心理療法(個人カウンセリング)、家族療法、集団療法、薬物療法、社会参加トレーニング、ひいては、スピリチュアルレベルの癒し(裡なる真の主体性の育成)を、統合・促進するいのちの場が、ここ「いのちの森水輪」にあるといっても過言ではありますまい。と、私は青少年育成センターに10年関わってきた今も、「いのちの森水輪」は進化し続けていると感じています。
最後に、医学の父〝ヒポクラテス〟はこんな言葉を残しています。
「人間は生まれ持った自然治癒力がある。」
「人間は自然から遠ざかるほど病気に近づく。」
「人間がありのままの自然体で、自然の中で生活すれば120 歳まで生きられる。」
と・・・。

なぜ いのちの森水輪で人が良くなるのか、成長するのか

精神保健福祉士  久間久惠

今回いのちの森通信への原稿依頼を頂き、毎回大変参考になる数々の示唆に富む記事を読ませて頂いている立場の私が書くことになるとは思ってもおりませんでした。躊躇する気持ちもございますが、テーマとして頂きましたのは「なぜいのちの森水輪で人が良くなるのか、成長するのか」でございました。脳外科医の主人と共に年に2 回、春と秋に「脳と心の勉強会」に出させて頂いておりますが、共に勉強するのは、全寮制のフリースクールで生き方と働き方を学んでいる、中学生から概ね35 歳の青少年がほ
とんどでございます。特にパンフレットにあるように、ひきこもり、不登校、ニート、うつ、神経症、不眠症、自律神経失調症、昼夜逆転、摂食障害、統合失調症、心の病などでお困りの方、将来が不安な方がこの勉強会に出て来られます。
私は現在横浜市金沢区で2 つの作業所、精神障害者地域活動支援センターと精神障害者の生活支援センターに関わっております。作業所の一つは統合失調症の方々を中心とした作業所でもう一つは摂食障害、パーソナリティー障害を中心とした女性のみの作業所です。生活支援センターは色々な意味で精神障害の方の生活を支援するという事で、相談事業や、日中仕事をしていらっしゃる方が寄られたり、病院への付き添いや生活で困っていることをスタッフに手伝ってもらったり、入浴なども出来るようになっています。作業所は共に24 年、16 年と長い年月立ち上げからボランティアとして関わってまいりましたが、私が最初に驚いたのは同じような病気を持ちながらも水輪の方々は、はっきりと自分の意見が言えるという事でした。それが勉強会の度に声に力がこもり、自分が日頃考えている事、疑問に思っている事を言葉にされることでした。
20 年以上前の作業所では薬のせいもあると思いますが、ほとんど思考が止まっているような状態で、ご本人の意見を聞くことが難しく、すべてに周りのスタッフ、ボランティアが主導しておりました。また被害妄想的思考が強く、わずか15 分くらいの距離を家から作業所まで歩いてくる間に、人からどう見られているのか、何か自分の悪口を言っているのではないかといったマイナスの想念で一杯になった頭を抱え、作業所に着いた途端、疲れた、疲れたと言って、横になる方が多かったように思います。現在は当事者も病気とうまく付き合える方が多く出てきたり、良いお薬が開発されたりして、統合失調症の方がたの生活は大分改善されたのではないでしょうか? 一方摂食障害、パーソナリティー障害はそれを直接治すような薬は無く、食べずに激やせとなり入院することになっても太ることへの抵抗感が強く、自主退院してしまう方、病気としっかり向き合えない方が多く、亡くなる方も多く見てまいりました。現在は摂食障害を病んでいられる方への個別のカウンセリングや、家族へのカウンセリングを作業所とは別に24時間体制で心理士により実施することで、作業所利用者の死亡はここ5年ほどで激減し、その間5~6 人を選び、全寮制のような形をとり、神奈川県の助成を頂いて水輪に似たことを実施しました。常に愛情を持った精神的に安定した人のかかわりの大切さも、その効果の高さから分からせてもらえたのですが、補助金を頂ける年限が決まっていたため、5 年でその事業を終わりにせざるを得ませんでした。その事業の終了時にはそれぞれが自立でき、働きだしたり、結婚したり、一人暮らしを始めたりと大きな成果がでました。死亡者も0 が何年か続きました。現在の作業所でも食へのこだわりが強く、食べるのは海苔だけとか、ご飯粒は一切食べないとか、下剤を毎日100 錠使用していた人とか、食べた物をわざわざ吐く方がいるので、トイレには何ヶ所にも嘔吐厳禁と黒字で大きく書かれた紙が貼られています。他人と楽しんで食事をとることが出来ない方々です。でも皆同じ病気なので気持ち的には作業所にいる方が安心できるのだそうです。そんな精神障害者のための作業所が出来たのは、全国でも横浜市金沢区が最初です。
私が精神に関わるようになったのは、結婚後東京コミュニティカレッジで3年間カウンセリングを学び、学校カウンセラーとして派遣された女子高で一人の生徒に出会ったことが今の私が精神障害者の作業所作りから関わる原動力になったと考えています。私が毎週学校に行く度に彼女は私のカウンセリングルームを訪ね、一人の時も、クラスの仲間何人かの時もありましたが、1年生の時から卒業するまで3年間それが続きました。彼女の話は母親がパートに出るようになり、そこで知り合った男性と駆け落ちする現場に居合わせ、母親を引き留めようとしましたが、母親は自分を捨ててその男性のもとへ走り、戻ってこなかったというのです。
父親はその日からだんだんに酒浸りとなり、家に居られないような状態だと話すのです。それでも地域で彼女の話を聴いてくれる人がおり、学校へ来れば、彼女を受け止めてくれる良い仲間がおりました。勉強は優秀な成績を修めようと努力していたと言うより、成績に強くこだわっておりました。私は卒業が近づくにつれ心配になってきました。彼女の精神状態は、今は学校に通い良い仲間がいることでどうにか保たれているけれど、この絆は卒業と同時にそれぞれ違った職場で働くことになり、切れてしまうだろうなと思われたからです。私の悪い予感は的中してしまいました。卒業して2年後、精神病院から電話がかかってきました。彼女からでした。病院に会いに来て下さいと言う電話でした。私は精神病院、しかも閉鎖病棟に行くのは初めてだったため、その時のショックは大きく、どう帰って来たのか分からないほどでした。閉鎖病棟の重い鉄の扉の前で立ち止まり、中に入れないでいる私に「下の待合室でお待ちください。本人を連れて行きますから。」と看護師の方に言われ待っていた私が目にしたのは、階段を一段一段どこ
を見ているのか視線の定まらないボーとした目で、半開きになった口元からは涎が流れ落ち、生気の微塵も感じられないまるで廃人のような彼女の姿でした。何を話し、何をしたのか、どう帰って来たのかも思い出せないほどですが、とにかく帰って来られたのが不思議に感じられるほどショックは大きく、二度とその病院を訪ねることは出来なかったのです。
彼女がどうしているのか今の私にはまるで分りません。ただただ心の中でいつもゴメンナサイと彼女に謝り続ける私がいて、彼女にしてあげられなかったことを、私は今自分のできるやり方で精神病を患う人々と関わり続けようとしているのだと思います。そんな中で水輪との不思議な出会いがありました。水輪がまだ母屋だけの時代に寄せて頂いたのが最初でした。その後東京コミュニティカレッジの卒業生何人かとお邪魔したこともございました。私にとって羨ましく思えるのは水輪のフリースクールの皆さんが短時間で回復し、成長されるのを目にする事です。またなんと立派に成長されるのだろう!人間がこんなに短時間でこんなにも変化し成長するものかと驚かされることです。仲間の言うことに従えなかったり、相手を悪くしか言えなかった子が、1 年後畑を案内してくれて、すべてに感謝出来る人に変わっていたのです。ここでテーマとして与えられた「なぜいのちの森水輪で人が良くなるのか、成長するのか」を私なりに考えてみました。
1.水輪には愛がある。無償の愛、暴力も乱暴な言葉も怖がらない真の愛があり、それを感じさせる強い愛がある。それを生徒の皆さんが感じることができていること。
2 どんな人も他の人とは同じになれないけれど、一人一人何か違った良さを持っている事を信じてくれる人がいて、それを引き出している。その為には一人一人を良く観察していなければ見つけられないものを見つけ引出し、自信に変えさせていること。(金子みすずの詩 みんなちがって、みんないい)
3.もう過ぎ去った過去の事や、来るか来ないか分からない未来の事を思い悩むのをやめ、今、今この一瞬に意識を集中し、手、足を動かすことの大切さに気付くよう指導していること。
4.人間の身体の60~65%ほどが水分だと言われています。水の良し悪しは健康に大きく影響すると考えられるし、無農薬で作られた食材で、心を込めて料理された食事を楽しく食べられる環境は人間の成長、魂の成長にも欠かせないものであると考えます。水輪ではこれが全てかなえられていること。
5.水輪の磁場が良いのは皆様良く知っておられると思いますが、目に見えない電磁波がすべてに流れており、植物にも、動物にも人間にも電流が流れており、それで色々な情報のやり取りを植物もしていることが分かっています。私たちの脳の中でも手を動かせとか命令を下してるのは神経線維を流れる電流です。動物が集まったり、寝転ぶ所は磁場が良い所、心地よい所と言われています。この磁場が人間に影響しないわけはないと考えます。
6.思考、意識、気付きを大切にされていること。もっとも大切なことかもしれませんが、我々が何をどう意識し、考えるかによって、考えた、あるいは意識したように手も足も動くので、事は自分が考えたように動いていくという事をいくつかの事例をあげて諦めないことなどを意識させていること。プラスとマイナスは電流の両極でどこにも存在するのと同じように、プラスの考え方もマイナスな考え方も同時に出来るのですが、ひっくり返して考えたり見たりすればプラスはマイナスに、マイナスはプラスになるということ。意識のしかたは一人ひとり違っていいし、違うけれども、自分の思い方、物の捉え方ですべてが変わるということ。自分が考えている事が絶対でないかもしれない、頭を柔軟にして、良いエネルギーを充分に体の隅々まで満たせたら、気功のように見えなくともこの水輪には良い気(エネルギー)が流れているのだと思います。皆様の回復が早められたり、成長する助けになるのは間違いないように私には思われます。
以上思いつくままに書いてみましたが、精神障がい者の方々に接していて思うことは、一人の人間として正当に扱って欲しいと心の中で叫びながら、本物の人間に出会う機会に恵まれなかった人が多く、本物の愛情に飢えている人が多いように感じます。出来るならば私自身が本物の人間らしい人間にこの年になっても成長し続けたいと願い、今日一日を自分で自分を褒められるような一日にしたいと思っております。
書かせて頂く機会を頂きました事に感謝し、御礼申し上げます。

いのちの森水輪に寄せて

いのちの森クリニック医師 川野泰周 先生

 皆様、はじめまして。この度は、「いのちの森クリニック」にて医師として関わらせていただけますことを、心より嬉しく存じております。あふれんばかりの大地と樹々のエネルギーが立ちこめる飯綱高原の聖地にて過ごす、全ての方々の心と体が健やかに研ぎ澄まされてゆくのを、共に体験させていただけることに、言葉では表せぬほどの喜びを感じます。

 「人間にとっての幸せとは何だろう?」

私は医学部を卒業して精神科医になってから、このフレーズを常に自問自答しながら診療にあたっていました。そして今、その答えに向かう一つの道筋が見え始めたかのように感じているのです。
禅寺の十九世、一人息子として生を受けた私は、小学生の頃より、先代住職である父の傍らに座り、一緒に法要で読経をしておりました。持病を患っていた父は私に少しでも早くお寺の務めを身につけさせたいと思ったのかもしれません。高校卒業を控えた夏、父は全身の抵抗力の低下から肺炎を悪化させ他界しました。まさにこれからの人生をどのようにして歩めばよいのか途方に暮れる思いでおりました。そんなとき、ある日の法要で四十九日の埋葬に温かな笑顔で向き合うご家族を目にしました。またある日は、一周忌、三回忌と年月を経ても、悲しみに打ちひしがれるご家族がいらっしゃいました。同じ「弔い」に対し、これほどまでに捉え方が異なるということに、自らの心が答えを求めて彷徨っていることに気付きました。それから数か月後、医学部への進学を希望し、精神医学の道を志すこととなりました。大学病院や精神科病院、市中のクリニック等における6年間の臨床経験の後、いくつかの医療資格を得た私は30歳になってようやく、生まれ育ったお寺を継ぐため、鎌倉にある大本山建長寺の修行道場「建長僧堂」に入門することを決意しました。
3年半に及ぶ修行生活は、決して楽なものではありませんでした。朝は夏なら3時に起床。1時間の読経ののちに老師との禅問答、厳格なしきたりに則った粥だけの朝食、一瞬たりとも立ち止まれずにひたすら掃き続ける境内掃除。ここまでやってようやく朝の務めが一段落しますが、すぐに午前の托鉢か作務、昼を挟んで午後の作務、夜は坐禅を何回も行いようやく21時頃就寝。しかしここで寝られるわけではなく、自主的に外の回廊や墓地で坐禅を行う「夜坐」が待ち受けています。十分に坐禅をした後に先輩修行僧から順番に就寝するため、新参者の私が最後に床に就くのは真夜中になります。束の間の眠りの後、また3時には鐘の音とともに慌ただしい一日が始まる…。寝不足から坐禅中にうたた寝をしようものなら、容赦なく先輩僧の警策(けいさく)が肩に撃ち落されます。こうしてわけも分からぬまま怒涛の修行生活を送るうち、気づけば3年以上が経っていました。
正直なところ、これまでにしてきた禅修行が自らにとってどのような意味を持つのか、自分自身の中で解釈できぬまま、山を降りてきた私がいました。「無常迅速 時不待人(むじょうじんそく ときひとをまたず)」。それでも時は待ってはくれず、世俗のペースに巻き込まれるかのように、住職に就任、そして4年ぶりの精神科診療の再開と、目くるめく日々は過ぎてゆきました。
ある朝、法事のお客様を迎えるため、本堂で支度をしているとき、ふと思いついて坐禅をしました。多忙な毎日の中で抱え込んだ様々な物事をいったん脇に置き、ただただ息の出入るさまに心を向けたところ、胸がすっと通るような心地になりました。禅堂で坐禅の日々を送っていた頃に時折感じた、「凪」のような穏やかさに包まれるひととき。その時、気づいたのです。「環境が人の心の在りようを決めるのではない。自らの心の在りようが、周りの世界を作り出すのだ」と。
私達は現代という、日々マルチタスクに追われる暮らしの中で、自分の存在の原点を容易に見失います。忙しさは人の心を蝕み、過労自殺の問題がこれほどまでに叫ばれる時代にありながら、生活のペースを緩めてゆとりを持つこともまた不安。そんなアンビバレントな心性が私を含む多くの現代人に見られます。忘れてはならないことは、ストレスを無くすことはできないということ、そしてストレスは人間の成長に必須のものであるということです。毎日を「充実している」と感じている人の方が、「忙殺されている」と感じている人よりもはるかに多くの物事をこなしているということが少なくありません。大切なことは「こころの在りよう」であり、ストレスの無い環境では決してないということです。「忙しい」という漢字をよく見ると、「心を亡くす」という意味が隠されていることに気付きます。たくさんの仕事に追われ、心ここにあらずの状態になってしまった時、人は「忙しい」と感じるのです。どんなに多くのすべきことを抱えていても、常に心を「今」に研ぎ澄まして、一つ一つのことに向き合って取り組んでいる人は「充実している」と感じるのです。この「今、ここ」に精神を統一する姿勢こそが、世界中で注目を集め実践されている「マインドフルネス」に他なりません。そしてこのマインドフルネスの源流にあたるのが日本の「禅」なのです。
私は自らの体験を通して、マインドフルネスの精神が多くの心の問題を「好転させる」(「無くす」ではなく!)ことを学びました。そして実際に様々な国内外の論文や研究発表に目を向けた時、それが科学的に証明されたものであることを知りました。うつ病、双極性障害、パニック障害、強迫性障害、PTSD、統合失調症、発達障害、パーソナリティー障害、依存症に至るまで、マインドフルネスの治療効果は、すでに確立されたものとなりつつあります。ではなぜ、これほどまでに多くの疾患に有効なのでしょうか?その答えは至極簡単なものでした。マインドフルネスは特定の症状や病態をターゲットにしているのではなく、「心の在りよう」そのものを変える治療だからです。マインドフルネスの入門編とされる呼吸瞑想では、自らのありのままの息の出入りにただ意識を向け、たとえそれが速かろうが浅かろうが、一切の良し悪しの価値判断を捨て、ありのままに受け止めることを原則とします。すると、次第に自分の呼吸に対して「ああしてみよう」、「こうしてみよう」という恣意性が薄らいでゆき、ありのままの呼吸を受容できるようになる。それはやがて、自分自身の存在を受け入れる(self-affirmation:自己肯定)ことにつながるのです。ここまでできて初めて、人は本当の意味において他者の存在を受け入れ、思いやりの心で向き合うことができるようになるのです。他者に対する慈悲の心は、まず自己に対する慈悲の心があってこそ育まれるものである、というのが禅の大切な教えの一つです。
私が初めていのちの森「水輪」を訪れたあの日、そこには多くのスタッフや研修生、実習生の方たちの相手を思いやる「心からの笑顔」がありました。夕食の際にサプライズで演じていただいたソーラン節と歌唱は、私の心の琴線を優しく揺らしました。「ここに居る人たちは日々、自分自身と向き合っている」、そのことを一瞬にして悟ることができた不思議な体験でした。この地を開拓し、「いのちの森」を創造された塩澤ご夫妻の、水輪という「家」と、そこで過ごす人たちにどんな願いを込めてこられたのか。その想いがじんわりと、私の心の奥底に、温もりとともにしみ渡りました。
いのちの森「水輪」で、私のこれまでの臨床経験、修行体験から得たものを生かして、診療、支援にあたらせていただけたら…。まるで当然のことであるのかのように、私の中に湧き出でた思いです。横浜という遠い地に拠点を構える私には限られた形ではありますが、想いはいつも水輪の皆様の、健やかなる心と身体の在りようをお祈りするところでございます。訪れることができます際には、最新の科学に基づくマインドフルネス治療を、日本の伝統たる禅の精神で俯瞰し、皆様とともに「今、ここ」を体験してゆきたいと思っております。この地で過ごす全ての人に、温かな心を…合掌。

青少年育成のための精神科医療の課題

川野泰周(精神科・心療内科医、臨済宗建長寺派林香寺住職)

近年日本において、若年世代を中心として「自己肯定感」の低さが指摘されています。平成30年に内閣府がおこなった13歳から29歳を対象とした調査によれば、「自分自身に満足している」と答えた人の割合は約45%と、半数以上の若い世代が自らの現状を肯定できていない事実が明らかにされています。アメリカ、ドイツ、韓国など他の先進諸国は軒並み七割から八割ほどでしたから、その差は歴然です。このことは日本の大型書店に配置された、自己啓発本のコーナーにも見て取ることができます。本棚には所狭しと「自己肯定感をいかにして高めるか」というテーマについてのハウツー本が多数並ぶようにりました。
私が都内の精神科・心療内科クリニックで外来診療に携わらせて頂く中でも、自分の存在価値を認めることが苦手で、いつも他者からの評価におびえ委縮してしまっているような青少年達が、数多く受診されるようになったことを実感します。
メディアでは、昨今の青少年達をとりまく環境が生み出す現象として、「いじめ」と「引きこもり」の問題を盛んに取り上げるようになって久しい今日ですが、これらの問題に直接対応を迫られ学校教員や養護教諭、スクールカウンセラーといった専門職だけでは対応が間に合わない事態に陥っています。もちろん、こうした問題を早期に発見し、聞き取りや環境調整などの介入をおこなうことは非常に大切ですが、それだけで根本解決を期待することは難しいのが現実です。
小学校の先生方から聞くところによれば、いじめが起こる背景には、一人の子供を多くの子供が攻撃するのではなく、一人の子供をたった一人か二人の子供が攻撃している状況において周囲のその他大勢が関わろうとしないことが、大きな要因として存在するとのことでした。一方、私が多くのご家族から相談を受けてきた引きこもりの事例においては、本人が自分の存在価値を肯定できないために社会の中で自責に耐えられなくなり、自らの部屋という安全な場所に閉居するようになったという経緯をしばしば耳にしました。他者を思いやる心が足りないことで起こるいじめと、自らを思いやる心が足りないことで起こる引きこもり。この二つの現象は決して別々のものではなく、表裏一体の結果を見ているように思えてなりません。
事実、かつてはいじめをする側であった子供が贖罪の念にかられ、自責を続けた結果、うつ状態などの精神的不調に陥って受診するというケースも多く経験しました。自らの存在価値を認められないことで、他者を否定したり、危害を加えたりすることで優位性を保とうとしますが、それは自分が心が一時的に作り出した虚構であり、いつまでも保てるものではありません。
この10年ほど、若い世代の人たちに、少しのストレスで容易に心が折れてしまいやすい傾向が指摘されています。まさに今、「心幹(しんかん)」すなわち心の根幹をなす、安定して柔軟性に富む人格を育む場が求められているのではないでしょうか。
精神医学では「レジリエンス」と表現されますが、単に強固に立ち続けるコンクリートの柱のような心ではなく、まるで竹のように、強風にも逆らうことなくしなやかに受け流し、将来の成長の糧とすることができる心の在り方です。日本には古来より様々な武芸が存在しますが、そのほとんどが禅の精神性を汲んでいるとされます。こうした武芸が、ボクシングやレスリングなど相手を力でねじ伏せる格闘技と大きく異なるのは、「自他ともにあること」が基本的精神として通底していることです。合気道では相手の攻撃をうまく受け流すことで、また柔道では相手が受け身を取りやすい方法で投げることで、互いに傷つくことなく、敬い合いながらも心身を鍛錬することができます。
いのちの森水輪では多くの青少年達が、それぞれの課題をもって共同生活をしていますが、その暮らしの根底には禅の教えが息づいています。様々な葛藤や悩みを心に抱きながらも、今ここにおいて取り組んでいる一つ一つの作業や生活行為に、全身全霊で心を置くことを重んじる、まさに「生きるマインドフルネス」の体現の場です。昨今世界的なブームとなっているマインドフルネスは、自己啓発や能力開発といった目的でビジネス業界においても好んで導入する風潮が見られます。
しかし水輪で青少年達が実践している日々の暮らしはそれとは大きく異なり、仲間たちと互いを思いやり、励まし合う中で心を磨く、本当のマインドフルネスです。ブッダの時代から仏教においては「サンガ(僧伽)」と称して、ともに修行に励む仲間の存在が大変に重んじられてきました。一人孤独に岩山の上に座して瞑想する修行のイメージは後世に作られたものであり本来修行というものは、人と人との関りの中で互いに深め合ってゆくものだったのです。このことは、仏教で最も重んじられる「三宝(三つの宝)」が、仏(悟りを開いた人)、法(仏の教え)そして僧(サンガ)の三つで構成されることからも明らかです。
水輪で暮らす青少年達は日々の暮らしに専心することを大前提としながら、時には皆で集まって互いの心の課題を見つめ合い、仲間の悩みや苦しみに対して最大限の助言を与え合う関係性を築いているという点で、非常に高い精神性を共有しています。何故ならば、同じことを一般の社会の中で真似ようとしても、プライドや肩書きが邪魔をしてオープンな対話が成り立つことは非常に難しいからです。相手が勇気を持って自分のために指摘してくれたことを、「なんで自分より出来の悪いあの人に言われなければならないんだ」とか、「あの人は自分を下に見ているからそんなことを言ってくるんだ」といった考えが、容易に頭をもたげるでしょう。
水輪で暮らす人々の関係性は非常にオープンで、一人一人が互いを尊重し合う思いやりを携えているために、対話自体が他者と自己とを成長させる力を持つのです。大自然の中で土を耕し、米や野菜を自給自足する暮らしの中で、「人は自然に生かされている」ことを知ります。そしてその心はやがて、「人は人に生かされている」ということへの気づきへと導かれ、感謝と思いやりの連鎖を生んでゆく。そんな力動が日々生まれる場所が、水輪なのです。
現在日本でおこなわれている医療の枠組みの中で、こうした本当の心の成長、レジリエンスの涵養をもたらす治療法は非常に限られたものであり、たとえあったとしても誰にでもそうした治療が受けられる体制には到底なっていません。とりわけ精神医療は都市部においても、地方においてもひっ迫しており、医師はものの五分か10分で1人を診察しなければ、殺到する患者全てに対応することができません。もちろん、今後医療体制が整備され、誰でも希望すれば手厚い医療を受けることができるようになればと願います。
しかし、真に理想の心の治療とは、医師や心理専門家が一方的に患者さんに提供する性質のものだけではないと私は考えます。患者さん自身が、日々の生活の中で自ら主体的に取り組み成長してゆく方法を指南し、その努力を支えるという治療者の在り方もまた重要なのではないでしょうか。インドから中国に禅の教えを伝えた達磨(だるま)大師の「二入四行論」によれば、理入と行入、つまり智恵を学ぶこととそれを日々実践することが双方ともに有ってこそ、解脱への道が開かれるとされています。人の心の回復において最も強い力を発揮するのは、医師が処方する薬でも、診断書でも、心理検査の結果でもなく、患者さん本人の自己治癒力です。その治癒力を引き出すために必要なことは、自然との対話、自己との対話、そして良き仲間との対話に他なりません。
いのちの森水輪は、そこで実習生活を送る青少年だけでなくリトリートの参加者、宿泊に訪れた旅行者など全ての人を温かく迎え、静かな時間とともに生きる喜びを呼び起こさせる場所です。
全世界が一寸先の将来も見通せない不安の中にあるこのような時にこそ、ここに安息の地があることを、世界中の人たちに知っていただきたいと願います。笑って会える日は必ず戻ってきます。その時にまた、多くの人たちとこの素晴らしき地において、心通わせることができると信じ、私も今できることに精一杯取り組んで参りたいと思います。

密室という診察室での精神科医療の限界を超えつながりあう医療を目指して

塩澤みどり(公益財団法人 いのちの森文化財団 代表理事)

 私はこれまで35年程、課題を抱えた青少年・青年の自立支援・社会復帰支援に携わってきました。巽信夫先生、井上弘寿先生に主治医になっていただく前は、長野市内の精神科クリニックに付き添って受診し、お薬を処方していただいていました。その際は、お薬を今よりも多目に出されて、ぼーっとしてしまったり、いろいろ形を変えて出てくる症状を訴えたりするような状態になることが多く、そのことを困っていると診察時に相談しても、「その量は必要だから、飲んで下さい。減らしたりしたら責任持てませんよ。」など冷たく言われ、親身になって聞いてくれる感じではありませんでした。診察時間も数分で、病が良くなる感じはしませんでした。通常の精神科の診療にて、薬を処方され服薬してもあまり状態は良くならず、余計に悪くなるというようなネガティブな印象を持たれている方は多いようで、困って私共に、相談される方々も多くおられます。

しかし、巽先生や井上先生は、患者さんのことを親身なって考えて下さり、その方々の症状の改善のみならず、人間的成長を考えて関わって下さいます。そして、診察の際、患者と医師の二人だけの診察ではなく、客観的な生活情報なども重要視し、24時間寝食を共にしている生活情報を丁寧に聞いて下さり、患者本人の同意の上、私やスタッフを交えての診察は、新しい精神科医療の開かれた試みとも言えます。生き方働き方学校の青年達の心の病を診ていただく診察室には、ドクターカウンセリングを受ける人と医師とのやりとりを客観的に見て受取れる場を設定していただいており、同じ立場の仲間や担当スタッフなどの参加が、生きた臨床現場の実践の学びにもつながっております。これは患者と医師との深い信頼関係がなければできません。言い換えれば人間同士の生きたつながりの中にこそ人間存在の原点(いのちの存在)があり、そこに立ち返ることにこそ、人間再生への道が開かれています。

患者と医師だけの診察の場合、患者は自分の症状や問題をそれほど認識していない場合が多く、色々な問題を周囲との関係で引き起こしていても、「問題ありません。」、「普通です。」と、全く流してしまったり、「ちょっとミスして注意されましたが、次から気をつけるので大丈夫です。」などと軽く捉えていたりということが多くあります。訴えるのは、頭痛やよく眠れないなど、身体症状であることが多いです。

しかし、それでは当人の人間関係や仕事中の課題はなかなか医師に伝わらず、改善することも難しくなります。そこで、日常生活や仕事上での問題の事実関係を医師に伝えることが大切になります。例えば、物をよく落としたりして失敗することがある場合、どのようなものをどれくらいの頻度で、どのような状況で落としてしまうのかを伝えることが大切です。それは、本人の不注意で、失敗をしっかり認識できない心の問題なのか、もともと本人の能力的に困難がある脳内物質の問題なのか、お薬の副作用なのか、色々な可能性があり、原因を探ることにより、診断やお薬変更や教育的指導などが変わってきます。

私が診察に同席してきた体験上、本人が正しく自分の症状や問題点を認識して、医師に伝えられることはほとんどないように感じます。どちらかというと、問題は赤裸々に言いたくない、隠したいという心理があり、医師に伝わらないことが多いです。そのため、医師の判断も正しくできず、合わないお薬が処方されてしまい、状態が良くならない、という悪循環に陥ってしまうことがあるように感じます。そのため、私達は、その方が最大限よくなるため、その方の状態の良くなっている所も、問題となっている所も客観情報として先生にお伝えして、先生の治療・診断に役立てていただけるようにサポートしています。このようなことは、その方の病状・状態をよくする上でとても大切なことだと感じています。通常の医師による診察の場合、これまでの慣例を重んじているからなのかこのような体制はなかなか受け入れてくれません。井上先生という人間性・人格を備えた方だからからこそ全人的医療ができるのだと思っています。

不安が強い方の病状で治療する場合、不安を和らげるお薬はいろいろあるようですが、お薬の選択次第では、病状が良くも悪くもなるように感じます。その際、先生はその方お一人お一人の不安の状態を見極めて、たくさんあるお薬の中で症状にあったお薬を選び出し、お薬の種類と量を処方頂いたり、考え方の癖などについてのアドバイスも頂いたり、全人的に診察していただいています。

お薬の処方に際しては、それが一発で、ぴったり薬があって状態が良くなるわけではなりません。この薬をこの量飲むとどういう状態になるのか、本人の判断だけではなく、周りの感じも重要です。患者本人が調子が良いと言っても、周りから見ると、ハイテンションになり過ぎていたり、攻撃性が強すぎたり、という場合もあります。そのため、本人だけの主観的感覚だけで診察を進めると、判断を誤ってしまうことにつながりかねません。人間は、他者との関係性の中で生き合い、生活し、学校に行き、仕事を行います。そのため、第三者の客観情報が重要な意味を持つことが多々あることを日々、実感しております。周囲がお薬調整に協力することが大切になると感じています。一方、お薬は過剰にならないように配慮していただいております。いのちの森に入所して、お薬が激減して良くなっていかれる方々がおられるのがそのことの証明だと思います。

また、日常生活やいのちの森での日々の農業実習や清掃実習にて早朝から夕方まで、目の前のことに集中して、真剣に実習に取り組んだり、1日を振り返って反省をしたり、共同生活の中で人間関係を構築する力を養うことも、病気を良くしていく上で重要だということをお話しいただいています。病が良くなるということは、症状レベルではお薬を飲むことによって良くなっても、生活がきちんとできるようになる生活力の向上や、仕事もミスなど起こさない様な仕事力の向上、及び対人関係も含めて人間力の向上などが含まれます。しっかり心と体を動かして、目の前のことに集中することが、お薬を飲むことと同じくらい病状を良くする効果がある大切なことであることも教えていただきました。病気を良くしていく上で、医療の面と教育の面の両方が必要だというお考えも伺いました。

精神病院に入院しても、良くならずに、当施設に入所され、病状が改善し、人間的に成長される方も多いですが、病院に入院中は、朝から体を真剣に動かし、目の前のことに集中して行う、仲間との人間関係をつくることはないと聞きます。その意味でも、精神障害の治療において、医療的側面と教育的側面の両方が必要だと実感しております。

自宅にいて、通院して良くならない方は、やはり自宅では、朝早く起きて自分を良くする為にがんばるということは、それなりに意志が強い方であれば可能だと思いますが、自宅では家族への甘えもあり、状態が悪い方では難しいことが多いと感じております。「他人の釜の飯を食う」という言葉がありますが、親元を離れることも自立の為の大切なことだと感じています。通学と寮への入所の両方が可能なあるフリースクールの統計で、寮に入所した人たちの方が自宅から通学する人たちと比べ、自立に向かう割合は倍くらい高いという話を聞いたことがあります。このことも、親元を離れることが自立の上で、重要であることを示していると思います。

精神的な課題を抱えた青少年・青年達が自立し、社会に貢献できる人生を送れるか、ひきこもったままいってしまうかは、彼らの人生にとって重要であると同時に、周りの家族や社会にとっても重要な意味を持っていると実感しております。

井上先生から過日、以下のようなお言葉を頂きました。「病状が良くなるだけでなく、人格的に成長し続けている――精神科医として、いのちの森・水輪に集う青年達をサポートするなかで実感することです。現在の精神科医療では、病状を良くすることはできても、人格水準を一定以上に高めることは難しい。それは、医療の範ちゅうを超えるからかもしれません。しかし、精神科臨床の要は、あくまで自己の確立と対人関係に関わる『人格』だと私は考えています。その点で、いのちの森・水輪は、現在の精神科医療の限界を超えたモデルを示しているのではないかと最近、感じ始めています。心身を包括する『いのち』を高め育んでいこうとするいのちの森・水輪の実践に、微力ながら関わらせていただき、私自身、塩澤ご夫妻をはじめ、いのちの森・水輪のみなさま方から多くを学ばせていただいています。」

このような人間性・人格をお持ちの井上先生に、主治医になっていただいていることに心より感謝すると同時に、先生のような、人間を深く診て関わっていただける精神科医の先生方が増えていただくことも切望いたしております。井上先生のようなお考えがやがて精神科臨床の場で主流になっていく時代が来る予感がしております。なぜなら、全人類の心は井上先生のようなドクターの出現を望んでいるからです。これからも、井上先生から学ばせていただきながら、青少年・青年達の自立と成長を願い、関わり合っていきたいと思っております。

以下は、井上先生の診察・カウンセリングを受けた青少年たちの言葉を紹介したいと思います。

報告がない、自分で勝手に決めてしまう、謝れない、ということは自分自身の人格を自分でおとしめていることにつながることだと思いました。今までは、どちらかというと自分のプライドが高くて謝れなかったり、すぐ感情的になってしまっていましたが、それは自分の中に指摘してくれる人に対して、他者が存在していなかったことにもつながると思います。本当はどんな怒られ方や言われ方をしても受け入れることが必要で、自分の好んでいる言い方で社会では誰も言ってくれないし、そういう意味では自分は自分に対してすごく甘いなと思います。今までつけてしまった良くない自分のくせ、パターンは直していかなければ、内省にもつながらず、内省がなければ、失敗をまた活かすこともできない。
こうでなければならない、こうあるべきであるという考え方が頭の中にあると自分の非を認められなかったり、自分の至らなさに矢印が向かないことは損をしていることだと認識しなければならないと思います。今まで自分の心が全く成長していなかったのは、自分の心の在り方にフォーカスをせず、他者や起こってくる事に対して矢印を向けて、内省を向けなければならない自分に矢印が向いていなかったというように思います。
そう思うと、私たちが日々学んでいる稲盛和夫さんのような偉大な人は、常に自分を律し、慢心を自分で律せられる人であり、本当の意味で自立している人と言えるのだと思います。
まずは言われたことを自分の人格が全て否定されたと感じずに、自分の問題点に直に結び付けられる内省力をつけたいと思います。今までの自分のパターンは、自分で自分を成長させるどころか、むしろ足を引っ張ってネガティブな方向に進んでいたように思います。自分のことしか考えていない結果でもあると言えると思います。
井上先生、みどり先生のおかげで、今日も大切な気付きを得ることができました。きっと今後の人生において宝物になるくらいの、教えて頂かないと気付かなかったことだと思います。最大限、改善に努め、自分にできることは手を抜かずに行う習慣をつけていきたいと思います。ありがとうございました。(Sさん)

しっかり考えてくれる井上先生にとても感謝しています。今後自分を改善していくために、今の時期は自分にとって、とても大切な時期で、だからこそ、一日一日、一瞬一瞬をおろそかにできないのでは、と思えました。
過去のだめな自分に別れをつげて、やっていけたらと思います。そうしていきたいです。
またカウンセリングを受けたいと思います。その時はしっかりとしゃべれるように、気持ちを落ち着かせ、内容を整理しておきたいです。日々内省し、現実から目をそらさず、特に今は、仕事を、真面目にやっていけるよう努力していきます。
これからも、色々なことがあると思いますが、そこから逃げてはいけない。自分の弱さを乗り越えるべく、実習に取り組んでいく。少しずつの積み重ねが自分の力になる。
また井上先生と良い話ができるよう、これからも頑張りたいです。(Hさん)

先日は信濃病院にて井上先生のカウンセリングを受けさせていただき有難うございました。最近の自分の状態を伝えられ、良かったと思っています。自分自身、最近の状態を何とか打開したいと思っていましたが、自分の意志の力だけでは足りないということを感じつつありました。井上先生は薬で人を良くすること以上に、心の成長を大切にしてくださっていることを感じます。そのような先生だからこそ、最近少しイライラしやすくなってきていること、以前のように頭の中で思考がグルグル巡ってしまうこと、自分の感情をうまくコントロールできていないことなど自分のことを安心して話すことができました。
その自分の状態や、質問に対して、周りから見ても、自分としても、意識がボーっとしてしまう状態があるのかと思っていましたが、実は逆に過敏になっているせいで、目の前のことに集中できない状態があるのではないかということを伝えられました。自分としては意外だったのですが、そのような診断に基づきお薬を処方していただいたことで、このところ状態も上向きになってきました。的確なアドバイスをしてくださったり、曖昧な回答ではなく、心を尊重した上での判断をして、明確に伝えて下さるので、腑に落ち納得することができました。先生の親身になって、真剣に関わり、力を尽くしてくださっていることに心から感謝しています。
又、みどり先生も自分の気持ちをうまく伝えられない時に、心に思っていることを引き出し、サポートしてくださりありがとうございました。今回は、いったん自分の状態の安定のため、お薬を服用していますが、あまり悲観的にならず、また一歩一歩改善してゆく努力をしてゆきたいと思います。井上先生、みどり先生を信じ頑張ってゆきます。
もう一つ、しっかりと2つの心理検査ができて良かったです。自分のことを正しく知りたいと思っていたので、また次回行った時、結果を教えていただけると今後の改善につながると感じます。この度は、ありがとうございました。(Wさん)